ジェリー藤尾さん

昭和の名曲「遠くへ行きたい」で一躍有名になったジェリー藤尾さん。その存在感は、まさに『日本を代表するエンターテイナー』と呼ぶに相応しいものだ。「トヨタカローラ」や「江崎グリコ」など、国民的なCMに多数登場するなど、40年前のお茶の間には欠かせない存在だったジェリー藤尾さん。今だから語れる本音に迫るインタビューだ。
活力は貯めておいて、『ここぞ』という時に発揮する
Profile ジェリー藤尾 本名:藤尾薫紀(ふじお・しげき)
1940年、中国・上海生まれ。1957年バンドボーイ当時、新宿のジャズ喫茶で歌った「HOUNDDOG」がプロの目に留まりスカウトされる。翌年、日劇ウエスタンカーニバルで初舞台を踏み、本格的芸能活動へ。1962年、NHKの人気番組「夢で逢いましょう」から生まれた「遠くへ行きたい」が大ヒット、日本レコード大賞作曲賞受賞。また、4年前の第55回日本レコード大賞では功労賞を受賞。ユニークなキャラクターと人なつっこい笑顔で、バラエティ番組でも引っ張りだこに。歌以外も映画・司会など幅広いエンタ-テイナーとして活躍する。
――言葉で苦労した少年時代
NHKアナウンサーの父親とイギリス人の母親のもと、上海の租界で生まれ育ったジェリー藤尾さん。第二次世界大戦終戦の翌年6歳の時、家族とともに日本に引きあげてきた。英語圏内で生活していた薫紀少年は、言葉の壁とその容姿から厳しい差別を受けたと言う。
「日本語が全く分からないので友達もできない。挙句の果てには『混血児』『あいの子』だのとからかわれ、虐めは半端じゃなかったね。一対一の喧嘩なんてもんではなく、一対五とか複数でかかってくる。それを次の日から、一人一人仕返しに行くわけですが、相手は必ず年上。必然的に喧嘩は強くなり、気付いた時にはガキ大将です。女の子は、虐められるとすぐ僕の所へ助けを求めに来ましたね。ところが、言葉が通じないものだから全然仲良くはなれなかったよ」
――知る人ぞ知る暴れん坊
そんなジェリー藤尾さん、新宿の繁華街で数々の武勇伝?を残している。もともと運動神経が抜群な上、喧嘩はお手の物。その腕前を発揮するかのように、夜の新宿では相当暴れ回っていた。彼の喧嘩の強さは、繁華街では一目を置かれた存在だった。その強さときたら半端ではない。『芸能界一喧嘩が強い男』とお墨付きだ。
ただし昔から頭が上がらないほど怖い人がいた。若くしてこの世を去った母親である。母親もまた慣れない日本で孤独にもがき苦しみ、いつしかお酒に溺れていった。そして最後まで日本に馴染めないまま逝ってしまったのだ。彼がまだ中学一年の時だった。
「躾けにはとても厳しい人でした。特に食事中なんて音をたてて食べたら、ビシン!です。だから今でも蕎麦とかラーメンをすすれません。私の子供や孫達もクチャクチャとは絶対食べないですよ。テレビで音をたてて食べているシーンを見ると、思わず消してしまいますね」
――日本語の美しさを大切に!
幼い頃、日本語を話すことが全くできず、その壁に苦しんだ彼だが、この世界に入ってから驚くほど「言葉」には敏感になった。今では、美しい日本語が大好きだと言う。
「日本語は、童謡や唱歌で覚えました。歌から『言葉』や『人生観』を学ぶことが出来ます。『夕焼け小焼けでひがくれて~♪』『からすーなぜ鳴くの♪』とか、童謡には素晴らしい歌詞が多いです。だから発音がおかしかったり正しい日本語を使わなかったりすると、気になりすぐ注意してしまいますよ。『る』の発音がおかしかったり、『れる』『られる』の使い方が間違っていたりすると正したくなりますね。だから嫌われるんです(笑)」
――エネルギーは貯めておくに限る
「この歳になったら、何でもかんでも首を突っ込んでしまったら、エネルギーが分散されてしまいます。有りもしない体力は、無駄に使わない事。活力は貯めておいて、『ここぞ』という時に発揮する。それが『いざ』となった時に、怖がらずに挑戦できるコツですよ! 私の場合は、それは『歌うこと』ですね」

大の車好きで『車は身体の一部』だと言うジェリー藤尾さん。現在でもアメ車を乗りこなし、500キロ、1000キロの運転をするのは当たり前という腕前だ。年齢に逆らわず淡々と語る彼の言葉の節々に、幼い頃から逆境に打ち勝ってきた強さを感じ取れた。

2016年8月
(聞き手:高橋牧子 編集長:山本英二)