読み物 - 連載モノ - 男と女 - 時計草 【いつまでも男と女】

時計草 【いつまでも男と女】

時計草 [作/西村信子]

 気付いたら泣いていた。その日は私の新生活の初日だった。県道の拡張で家がなくなるのを機に入居を決めた老人ホーム。館内の案内の途中で立ち寄ったサンルームに、「それ」はあった。
 「時計草・・・」。呟きが音になるより先に、涙が零れていた。四年前、突然の入院で逝った夫が、植え付けできないまま残していったのが時計草だった。もう立ち直ったつもりでいた。止まらない涙に、私はうろたえてた。
 その時何も聞かずにハンカチを渡してくれたのが、案内役だった上田さんだ。彼は私が落ち着くまでじっと待ってくれて、「この時計草、実は僕が育てているんです」と教えてくれた。

 上田さんは私が入居した三階の長で、その後も私を気に掛けてくれた。このホームは全室個室で外出も自由。入居者は百名を超える。上田さんがいなかったら、人の輪の中に居場所を作るのにもっと手間取ったに違いない。やさしさをもらううちに、私は彼に自然と好意を抱くようになった。
 好意が恋に変わったのは、時計草に蕾が付いたころだ。気持ちは日々膨らむ蕾と共に着実に大きくなった。私は今年七十歳になる。年のことを考えると、この思いは「咲いた」って「その先」がないのかもしれない。けれど亡夫への気持ちと同じように、恋心は頑固に胸の中にあった。

 六月のある日、時計草の花が咲いた。紫と白の花びらの上に広がる繊細な雄しべ。私は上田さんと二人でそれを見た。私の恋心と一緒に育ってきた蕾が、とうとう咲いてしまった。花は鮮烈な存在感でそこにあり、「あなたはどうするの?」と問いかけてくるようだった。目を伏せた私に、上田さんが言った。
「実がなったら一緒に食べてくれますか? 僕の部屋で」
 時計草、またの名をパッションフルーツ。鑑賞種もあるけれど、上田さんのは食用だったようだ。
「咲いたら終わり」じゃない。次は「実を結ぶ」のだ。
「はい。喜んで」
 私は晴れやかに微笑んで答えた。 (了)
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