野口五郎さん

 「アイドル」という言葉が、世の中に広がり始めた、1970年代、西城秀樹さん、郷ひろみさんと並んで、新御三家の一人として、絶対的な人気を誇った。
 そして今、圧倒的な歌唱力と、バックの演奏も自分で構成する音楽の才能が、再び注目を集めている。そんな野口五郎さんにお話を伺った。
人間って何歳がピークなんだろう、
それは死ぬ瞬間だと思うんです。
Profile 野口 五郎 (のぐち ごろう)
1956年、岐阜県美濃市生まれ。1971年、「博多みれん」でデビュー。2枚目のシングル「青いリンゴ」がヒット。翌年からNHK紅白歌合戦に10回連続出場。新御三家の一人として1970年代の日本を代表し、活躍した元祖アイドルとも言える。妻は三井ゆり。子供は一女一男。実兄は作曲家の佐藤寛。歌唱力のみならず、卓越したギターテクニックも高い評価を得て、現在はライブやコンサートを中心に活躍している。代表曲には「君が美しすぎて」「私鉄沿線」「19:00の街」など。56歳となる昨年は、「GOROの年」と銘打って、エイベックスより「僕をまだ愛せるなら」をリリース。等身大のGOROを表現した。
――小さい頃からのど自慢大会に多く出場していたそうですね。
 私の両親が音楽好きで、ごく自然に、小学1年からギターを弾いていました。僕の一番古い記憶は、3歳の時。町内の、のど自慢大会です。トラックの荷台にピアノが置いてあって、平尾昌晃さんの「星はなんでも知っている」を歌いました。病院の看護婦さん達が、僕に向かって、わあっと声援を送ってくれたのを憶えています。
 近所では、僕の歌好きが有名になっていて、小学5年の時に、近所のお姉さんが、『ちびっこのど自慢』の告知を見つけて誘ってくれたんです。当日、先着100名まで出場できるというものだったのですが、すごい人気で、並んでいた僕の前で切られてしまいました。仕方なく会場で見ていたら、司会の大村崑さんが、「10人飛び入りをとります」と言うのです。会場に来ている子どもたちは全員歌いたいので、全員が手を挙げるわけです。大村崑さんは1人ずつ決めていき、「次は最後の1人です」って言われたとき、「そこの君」って指されました。周りも全員が手を挙げていて、本当に僕かどうか分からなかったのですが、僕と決めつけて出て行きました。「大村崑さんの黄金の右の人差し指」と言ってるんですけど、彼の一差しがその後の僕の人生を決めたようなものです。最終的に、予選を勝ち進んで、チャンピオンになったのです。
――デビューするまでに、挫折を味われたとか……。
 数多くのオーディション番組を受け続けました。あるオーディション番組で、審査員長の「リンゴ追分」を作曲した米山正夫先生に声を掛けられて、小学6年の時レッスン生になりました。中学2年になり、デビュー曲もできて、いよいよレコーディングで母と2人で上京する事になりました。ところが、新しい学校での運動会の時、突然声が出なくなってしまったのです。米山先生には、変声期だから声を出さない方がいいと言われ、デビューは中止に。いきなりの挫折ですよ。
 当時、東京の浅草で、おじが営む印刷工場の四畳半で暮らしていて、窓を開けるとそこはお墓。歌は禁止されていたのですが、墓石に向かって毎日歌ってました。何かをしたかったので、渡辺プロの「スクールメイツ」に応募し、合格。また、7つ上の大学生のグループだったのですけど、友人のお兄さん達がやっていたバンドに加わり、中学2~3年の当時、赤坂のゴーゴー喫茶で演奏していました。それに加えて、知人の紹介で、「あゝ上野駅」を作曲した荒井英一先生の、演歌レッスンにも通い始めました。母は、従業員の世話をしたり、内職をしたりしていて、スクールメイツや、演歌のレッスン費を払ってくれました。僕は、近所の工員さん達のタバコを買ってきては、当時80円だったハイライトのお釣りの20円を貰い、それを貯めて、バンドの練習費用を捻出したりもしましたね。
――その後15歳でデビューされ、青いリンゴが大ヒット。その後、次々とヒット曲が続きましたね。当時の事を今どのように、感じますか?
 売れていた頃のお話となると、憶えていません(笑)。当時レコードの売上が1位になった事もあるし、年間のヒットチャートが1位になった事もあります。それが一つの目標だとしたら、目標を達成した事になると思うのですが、僕にとって価値を感じるのは、そこまでの道程なんですよ。頑張って色々な経験をした事が、暗い話ではなくて、それが僕にとっては、印象的で楽しかったし自慢なんです。脇 目もふらず一心不乱に頑張っていた、そんな自分が自慢なんです。
――来たる12月28日、東急文化村オーチャードホールで、コンサートを開かれるそうですね。
 昨年に続き、オーチャードホールで、コンサートを出来る事は歌手冥利に尽きます。僕自身、僕には色々な面があると思っています。様々なジャンルの歌や、楽器、アレンジを含めて、懐かしいとか新鮮とか、いろんな方法で皆さんに聴いて頂ける事が、僕の個性ではないかと思います。自分の人生で、歌うことが一生の課題だとしたら、答えを出す方向に向かっていて、今出せる近い答えが、オーチャードホールでのコンサートだと思うのです。
――読者の方へ向けてメッセージをお願いします。
 あえて口にしますが、あの頃は良かったと言わない事です。長く生きている分、若い人よりも、知識や経験が豊富である事を自慢してほしいと思います。年齢を重ねてきたことを否定せず、受け入れながら、それを誇りに思う。そうあって欲しいと思います。人間って何歳がピークなんだろうと考えた時に、今この瞬間こそがピークで、そして死の最後の瞬間にピークを迎える。それが今の僕の答えです。
 
 意外な苦労話に、人として魅力を強く感じたインタビューでした。一人のアーティストとしてさらなる開花を予感しました。

2013年10月
(聞き手:高橋牧子 編集長:山本英二)